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学びほぐすことについて

 最近、鶴見俊輔先生の本を読み続けている。目的は2つ。次に書く本が教育の本になるだろうから、かつての知の巨人たちが教育についてどう考えているのか、分析していること。もう1つは、プラグミティズムについて、やはり学んでおきたいという願望からだ。その中で、鶴見先生がヘレン・ケラーに出会った時のエピソードが僕の中で強烈に響いている。

「17歳の夏休み、ニューヨークの日本図書館ではたらいているときに、ヘレン・ケラーが手話の通訳とともにその図書館を訪ねてきた。

 艦長が、宮城道雄の「春の海」のレコードをかけると、ヘレン・ケラーは、蓄音機に手を触れて、そのふるえから何かを感じて、音楽についての感想をはなし、偶然、私に質問して、私がハーヴァードの学生だとこたえると、自分はそのとなりのラドクリフ女子大学に行った、そこでたくさんのことを「まなんだ」が、それからあとたくさん「まなびほぐさ」なければならなかった、と言った。

 たくさんのことをまなび(learn)、たくさんのことをまなびほぐす(unlearn)。それは型通りのスウェーターをまず編み、次に、もう一度もとの毛糸にもどしてから、自分の体型の必要に合わせて編みなおすという状景を呼びさました。ヘレン・ケラーのように盲聾啞でなくとも、この問題は、学校にかよったものにとって、あてはまる。最後には自らのもうろくの中に編みこまなければならない。これがむずかしい。今の自分の自己教育の課題となる。そのことに、その頃は気づかなかった。」

 ここで鶴見先生は「学びほぐす(unlearn)」という点に注目している。僕はこの作業こそ、本物の学びだと思うのだ。多くの社会人が「もっと大学で学んでおけばよかった」という。社会に出て、食を通じて学ぶべき主軸ができ(というより、与えられ、嫌が応にも軸を確立しなければクビになる)、そこに経験を通じて、知恵として学びほぐす作業が必要になる。

 この主軸を本当は高校生のうちに立てられるのが理想だ。でも、マス化された今の教育システムで、教師ひとりひとりが学生の個々人の特性や興味を把握して、軸を育てることは難しい。そこで重要なのが「家庭」になる。家庭が教育を外注せずに、子供のアンテナを伸ばして、軸を見つけられる手助けをしてあげることが重要だ。そうすれば、大学で学ぶ意味が深くなるだけでなく、もしかしたら、大学生活の最中に「学びほぐす」ことができるかもしれない。それにはどうすすべきなのかを真剣に考えている。

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